本田宗一郎は戦後、浜松の町工場「アート商会」を暖簾分けしてもらい自転車に小さなエンジンを付け湯たんぽをガソリンタンクにして奥さんの買い物の足として動力自転車を作成した。
一代で世界のHONDAを作り上げた人だから、今更その功績をくどくど書くのはやめよう。
あの人に会いたい 「技術者 本田宗一郎」
オートバイで実績をあげていたホンダが四輪車を作り出した。
HONDAS600という二人乗りのスポーツカーで水冷4気筒DOHCでキャブレターが独立して4個ついていた。
この独立していた4キャブがややこしくて、4個とも正常なら素晴らしい走りをしたが、またよく調整がバラつきプスンプスンと回転が息切れ状態になって走りを悩ませた。
座席はベンチシート一点張りだった他社の車とは違って、スポーツタイプのバケットシートで、今では当たり前だが当時としては珍しくシートベルトが標準装備されていた。
勿論オープンカーでホロを開けて走ると快適だった。
S600のエンジンを360ccに変え軽トラックに積み込んだが、このでかいエンジンを無理やり荷台下に搭載したので修理屋さん泣かせだった。プラグ一本変えるのに下に潜り込み15分。キャブレターの調整には手の入らないようなところに手を突っ込み、微妙な4キャブを調整していいた。
今の軽自動車は3気筒が多いが、HONDA軽トラは神風トラックと呼ばれるほど走りは最高だった。
満を持して発売したN360という軽自動車は前輪駆動で31馬力を出すのに8,500回転も上げなければならない2ドア車を発売した。
昭和42年だから発売し、4年間売上は一位を突っ走ったが、欠陥車問題で国会で議論され、共産党から攻め続けられたが、欠陥車ではないと言い張って無罪を勝ち取っがホンダライフという水冷2気筒の大人しい軽自動車を急いで発売したところを見ると、HONDA自体は欠陥車だと認識していたからだと思う。
HONDAのモットー「走る実験車F1」を「走る実験車N360」でデーターを集めたのだと思う。
2輪車のメーカーが4輪車を作ったのだからわからないことだらけだった。
エンジンはCB450から流用したもので、オートバイと同じチエンでカムシャフトなんかも回していたから騒音が大きかったし、ギアシフトもオートバイのドグミッションを採用していたので切り替えるたびにガツンと音がした。
空冷だから冬はエンジンの予熱を室内に自然流入だから効きが悪かったしオイル漏れの焼けた匂いが室内に入ってきた。
前輪駆動なのでフロント部分を重くしなければならずリヤの部分は軽くクッションは板バネだった。
確かに欠陥車だった。直進していてもなんかのはずみで30センチぐらいフワッと横にブレる車もあった。
HONDA1300という空冷5人乗り乗用車を発売したが、すぐ発売を停止し、新車の値段で新発売されたHONDA1300クーペに乗り換えさせたが、HONDA1300は事故を起こすと車体が真っ二つに割れたから欠陥車とみなし、暗黙のうちに内々で処理してしまった。典型的な走る実験車だった。
その証拠に新車と同じ値段で下取りしたホンダ1300はフレームナンバーを記録し再販を禁止した、
このHONDA1300発売を記念して鈴鹿サーキットの会場で全国から500人もの大手HONDAのオートバイを販売していた大手のモータ―屋さんを呼び宴会を開いた。N360の販売はHONDA直営店ではなくモーター屋さんに販売をまかせていた。
宴会会場に本田宗一郎が現れ、ビールで乾杯をして回った。
誰もが本田宗一郎と乾杯したかったので、各テーブルごとに回ってくる金縁眼鏡で小柄な老人の本田宗一郎とグラスを合わせ乾杯していた。
本田宗一郎は何処にビールが入るのかと訝しくなるほどにニコニコしながら乾杯の大声とともに一気に飲み干していた。
顔は赤かったが酔ってはいなかった。
私が見ていた限りでは、70杯ぐらいは一気飲みしていた。
これは誰にもできない本田宗一郎の独壇場だ。
酒に弱い私は本田宗一郎の帝王学の基本である豪快な面を見せられ上に立つ人の意志の強さに感激していた。
余談だが、自動車メーカーが愛車無料点検と言ったなら無料点検をしてもらったほうがいい。
無料点検という殺し文句の裏に、公表したくない欠陥部分をこっそり直してくれるからだ。